
「GO FOR KOGEI 2025」
2025年9月13日(土)- 10月19日(日)KAI 離(石川県・東山エリア)
https://2025.goforkogei.com/
「夢の香」
「KAI 離」は東山の最奥、卯辰山(春日山)の西斜面に位置し、裏手には加賀友禅の祖である宮崎友禅斎が眠る龍国寺、北側には再興九谷の祖・青木木米が築いた春日山窯があった場所である。
宮崎友禅斎は出自などに謎が多いが、一説には能登穴水に生まれ京都で扇絵師として名声を博した後、1712年に金沢へ戻ったとされる。観音町の加賀染・太郎田屋與右衛門のもとで米糊を用いた抜染法を確立させ、加賀友禅の源流を築き1736年に83歳で没した。180年後の1920年に「金沢最後の文人」と称された細野燕台によって龍国寺の墓が発見され、三越百貨店の主催で墓前祭が行われた。今でも年に一度、加賀友禅の関係者によって祭典が営まれている。
一方、京都の陶工で文人でもあった青木木米は、1806年に国焼の奨励のため加賀藩より招かれ卯辰山の一峰・春日山(別名:帝慶山)の裾に築窯した。陶郷・景徳鎮を加賀に実現することを目指したが、金沢城二の丸殿閣の火災の影響による藩の財政難などからその目的を果たすことなく、1808年に帰京した。木米に私淑した陶工の原呉山が、「(木米)故ありて京地に帰る」と伝えているが、この春日山窯を端緒として1700年頃に途絶えていた九谷焼が再興され、現代へと繋がっていった。
この土地を通じて、石川を代表する工芸の源流となった二人の思いや歴史の積層を見ることができる。卯辰山は金沢城の向かい側にあることから「向かい山」とも呼ばれ、城下を一望できる地理的条件から、警護上入山が厳しく禁じられていた。東山、茶臼山、観音山、臥龍山、宇多須山など数多くの異名は、人々の深い親しみを物語っているようだ。文人たちが「向かい山」を「夢香山」と書いたのも、登ることのできない山への憧憬ゆえかもしれない。やがて1867年に14代藩主・前田慶寧がその禁を解き、卯辰山は市民に開かれた公園として整備された。小説家・徳田秋聲も幼少期に度々卯辰山を訪れ、時を過ごしたという。
今回、「KAI離」での展示にあたり、私は友禅斎と木米という二人の人物に着目した。ともに京都より来たる人である。そして卯辰山の歴史とそこに刻まれた人々の記憶を辿りながら、金沢の人々ですら長く望むことができなかったであろう卯辰山の頂上(望湖台)からの風景を油画で、また数々の異名を持つ卯辰山の姿を友禅斎が用いた米糊による「筒描き」という技法で墨画を描いた。これらの絵を「KAI離」のオーナーで構匠(こうしょう)・三浦史朗氏の茶室「回炉」の襖絵として仕立てた。三浦氏もまた京都より来る人物である
上出惠悟
★墨画「夢の香」について
茶室「回炉」一階の四枚の襖に描いた四つの山は、春日山以外に具体的なモチーフはないが、卯辰山が持つ数々の異名、そして観音山、愛宕山、摩利支天山、毘沙門山、油木山、春日山などの複数の峰から構成される卯辰山そのものを象徴している。
四枚の一番左の襖には、中腹に小坂(春日)神社と参道を有する春日山を描いた。春日山窯は小坂神社参道の左(南)側、善導寺の間の場所(唐津山)にあったとされる。
その隣の襖には景徳鎮の風火仙に影響を受けて建てられた祠(ほこら)・箕柳祠(きりゅうし)に刻むために加賀藩士で郷土史家の富田景周(とだかげちか)が記した「箕柳祠碑文」の序文と、木米を象徴する龍を描いた。碑はその後完成せず、森田平次の著書「金沢古蹟志」に収録されている。
箕柳祠碑文・序文:
「穴居坏飲邈充。雖有神農昆吾換坏之製。不可得而徴焉。魔舜之起於陶。蓋陶之瞭然史伝 者。面什器不苦鹼之聖製。是与徳相成者。不大哉。(昔、人は穴に住み土器で飲食していた。神農・昆吾といった古代の人が器を作ったと伝えられるが、それを確かめることはできない。 堯舜(ぎょうしゅん)の時代に陶器が起こったとされる。これは明らかな歴史的伝承である。 器は生活に欠かせない聖なる製作物であり、人の徳とともに成るものだ。実に偉大なことではないか。)」
最後の二枚の襖は宮崎友禅斎が残した句「畫に書た梅にもほしき匂ひかな」と、着物のサンプル集「余情ひながた」から梅(「窓梅模様」)を描いた。
いずれも「夢の香」をテーマに即興的に米糊で和紙に描き、墨で染め上げたものである。