日常の中に「理想郷」を求めて 中井康之(国立国際美術館主任研究員)
われわれが生活する東洋に於いて、「楽園(パラダイス)」に相当する場所(トポス)を表す対象は容易には見出し難いかもしれない。われわれが思い描く「楽園」の多くは西洋起源であり、おそらくは旧約聖書の「創世記」第2章に描かれた「エデン」の地が原型となっていると考えられるだろう。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
(『創世記[口語]』日本聖書協会、第2章 2:8-12)
このような天上的な力による、さらには豊穣なイメージによる「楽園」ではなく、われわれ東アジアの多くの者が「理想郷」と解釈する対象は、中国、六朝時代の詩人、陶淵明の「桃花源記」に描かれた、桃花の林の奥深くに迷い込んだ漁民が見つけた「桃源郷」に住まう人々の平穏な暮らしぶりではないだろうか。
土地は平らかにして曠(ひろ)く、屋舎(おくしゃ)は儼然(げんぜん)として、良田(りょうでん)美池(びち)、桑竹(そうちく)の属(たぐ)いあり。阡陌(せんぱく)交(まじ)わり通(つう)じ、鶏犬(けいけん)のこえ相(あ)い聞(き)こゆ。
(陶淵明『桃花源記』注者一海知義)
今回登場する上出惠悟は、来年で135年を迎えるという九谷焼の窯元・上出長右衛門窯の六代目である。そのような場所に生まれた多くの者がとる行動は、その伝統や因襲といった有形無形の遺産と距離を持つことであり、彼も美術の基礎を東京藝術大学の油画科という場所で学ぶという行動をとっている。その場所で何らかの批判的精神を醸成した上で窯に戻ったのであろう。とはいえ、新たな世紀へと移り変わった時代に、芸術という世界に関わることになった者にとって、第二次大戦後直ぐに起こった『走泥社』のような前衛陶芸の様に陶芸から実用的要素を剥ぎ取り純粋造形として自立していくような道程とも等しく距離を取ることになることもまた当然であった。そのような前衛運動は、カントの批判哲学に端を発する自己批判的な精神によって培われたものであり、そのスタイルとしては、自らを自己規定するメディウムを「純粋」化する方向性へ突進していった「モダニズム」を背景としていることは言を俟たない。その「モダニズム」の源泉を、冒頭に掲げた「旧約聖書」の『創世記』からもはっきりと見とることができるだろう。その「エデン」という「楽園」は、文字通り「見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせた」のである。このような純粋思考は、後に、トマス・モアの『ユートピア』という名の「ディストピア」を生み出すことになる。
そのような「楽園」が、われわれ東アジアの文化圏で生を営む者にとって快楽的な共感を呼び起こす部分は少ない。対蹠的な世界として、やはり冒頭に掲げた「桃源郷」は、しかしながら、この島国に住む人々にとっては隔靴掻痒の感を抱かせるところがある。その山間に拡がる田園風景は、記憶の中の懐かしい風景のようではあるのだが、それでも1600年程過去の武陵(現、中国湖南省)という異国の説話であることが、もどかしさを感じさせるのだろう。それに相似する世界観を持つ日本の美術作品として、久隅守景の《夕顔棚納涼図屏風》を例示するのは無謀であろうか。その画を知る者は多いと思う。農民夫婦とその幼子が、粗末な小屋の傍らに設けた夕顔棚の下で涼みながら月を眺めているというシンプルな作品である。この作品は、戦後の昭和27年に長谷川等伯の《松林図屏風》と共に国宝に指定された作品としても知られている。当時の選者たちもこの作品を、この国の「理想郷」を表していると想定したのだろう。
上出惠悟の作品は、彼の出自である九谷焼を用いている。その元祖となる古九谷の絵付けを、当時(江戸末期)加賀藩に滞在していた久隅守景が指導をしていたという定説があるがここでそのことを取り上げようというのではない。その古九谷が築き上げようとしたのは、唐代に生み出された白磁に五彩の絵付の景徳鎮であった。上出が自らの作品で実現しようとしているのは、そのような連綿たる時を重ねてきた磁器の世界を舞台とし、その中の伝統的な様式を緩やかに遊ばせながら、われわれ日本人の秘かなる風景を映し出そうというのである。その軽妙で諧謔的ともいえる作品群は、江戸末期の絵師が残した庶民図と同様に、この国の何とも言えない日常の中の「理想郷」を垣間見せる。その作品群が生み出す「場」(トポス)を上出は「幽谷」あるいは「游谷」等々と名付け、見る者を悠久の世界へと誘うのである。